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2013. 7. 22. 14:21차 이야기

 

 

千利休

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千利休像
長谷川等伯画、春屋宗園筆)

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人茶人

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。

目次

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名・号[編集]

幼名は与四郎(與四郎)、のち法名宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)とした。

広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時はの「宗易」を使用し、後に宮中参内に際しての「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。

号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。なお『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだものだという説も一部にあるようである。いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っている。

生涯[編集]

和泉国商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部細川忠興大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

利休が死の前日に作ったとされる辞世の句(遺偈)が残っている[1]

人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛

利休忌は現在、3月27日および3月28日に大徳寺で行われている。

死の原因[編集]

利休が秀吉の怒りを買い死罪になった原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」[2][3]とする説がよく見られるが、その他にも下記のような様々な説があり、明らかにはなっていない。また、秀吉は蟄居を命じただけで死罪までは企図していなかったが、利休が一切の釈明や謝罪をしなかったために更に怒りに触れ切腹を命じたとする説もある。

  • 安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれた[4]
  • 天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢庭石などに使った[5]
  • 秀吉と茶道に対する考え方で対立した[6]
  • 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉にその事を恨まれた[7][8]
  • 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれた[9]
  • 秀吉の朝鮮出兵を批判した[10]
  • 政治権力者秀吉と芸術家利休の自負心の対決[11]
  • 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれた[12]
  • 秀吉は元々わび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で“大名茶”とよばれる茶を点てた頃から密かに彼に不満を募らせていた。さらにこの後、信楽焼茶碗を作っている事を聞いて憤慨した秀吉からその茶碗を処分するよう忠告されたが、聞く耳持たなかった[13]
  • 自身が修行していた南宗寺とは徳川家康と繋がりがあり、家康のスパイとして茶湯の中に毒を入れて、茶室で秀吉を毒殺しようとした説[14][15]

死後[編集]

千利休の自害後、聚楽第敷地にあった利休聚楽屋敷(毘沙門町および葭屋町通元誓願寺下ル町の晴明神社の近くにあったという)は、秀吉の手によって取り壊された。十数年後、この屋敷跡地は、利休七哲の一人である細川忠興の長男長岡休無の茶室・能舞屋敷として活用された。

茶の湯の後継者としては先妻・宝心妙樹の子である嫡男・千道安と、後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に娘婿の万代屋宗安千紹二の名前が挙げられる。ただし道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、その他にも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いだ。

利休死後数年を経て(1595年(文禄4年)頃)、徳川家康や前田利家の取りなしにより、道安と少庵は赦免された。道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。このため、少庵の継いだ京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期姻戚関係が生じる。

三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺の渇食であったその息子・千宗旦が還俗して、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。件の木像は今日庵に現存する。

利休の茶の湯[編集]

  • 「わび茶」の完成者としての利休像は、『南方録』を初めとする後世の資料によって大きく演出されてきたものである。偽書である『南方録』では、新古今集(実際は六百番歌合)の藤原家隆の歌、「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上宗二による『山上宗二記』が第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。
  • 利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。
  • 利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。
  • 露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。
  • 「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。

人物・逸話[編集]

  • ある朝、秀吉が利休に茶会に招かれると庭の朝顔が全て切り取られていた。不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあり、一輪ゆえに際立てられた朝顔の美しさに秀吉は深く感動した[16]
  • 秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。不思議に思った周囲が尋ねると「少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えたという。
  • 弟子の古田織部の茶席で籠の花入の下に薄板を敷いていないのを見て感じ入り、「この事に関しては私が弟子になりましょう」とまで述べた[17]
  • ある冬の日、大坂から京へ向かっていた利休は、親しい茶人の家へ立ち寄り、主人は来訪に驚きながら迎え入れた。利休は突然の訪問にも関わらず手入れされている邸内や、庭で柚子の実を取り料理に柚子味噌を出す主人のとっさの客をもてなせる趣向に喜んだが、料理に当時は高級品で日持ちもしない蒲鉾が出されたところで顔色を変えた。実は主人は利休がこの日に自邸のそばを通ることをあらかじめ知っており、準備を整えた上で素知らぬ態で突然の客でも十分にもてなすことが出来るように見せかけていただけだったのである。蒲鉾が用意されていたことからそれを察した利休は、わざわざ驚いたように見せた主人の見栄に失望しその場で退席した[18]
  • 福島正則細川忠興が茶人の利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していた[19]
  • 現存している利休の甲冑(不審菴蔵《紺糸威縫延二枚胴具足》伝千利休所用)から推定すると身長は180cmほどで、当時としては並外れた巨躯だった[20]
  • 切腹を命じにきた秀吉の使者に対しても動じず「お茶の支度が出来ております」と述べた[21]

足跡[編集]

千利休屋敷跡
堺市堺区宿院町西1丁)
利休居士四百年記念碑
九州大学馬出地区内
  • 大阪府堺市堺区宿院町西1丁の中浜筋沿いに利休の屋敷跡と伝えられる場所があり、市の史跡として保護されている。千家茶道の発祥と発展に伴い、周囲には堺を代表する和菓子店が多数存在し、中には豊臣秀吉が名付けたものもある。
  • 京都市上京区晴明神社内に利休屋敷跡の碑が建つほか、堺の百舌鳥野(現在の大仙陵古墳周辺か)に「もずの屋敷」、京都五条堀川辺りに「醒ヶ井屋敷」、同じく東山大仏前に「大仏屋敷」、大徳寺門前に「大徳寺屋敷」、大阪府島本町山崎に「山崎屋敷」を構えていたと伝えられ、京都府乙訓郡大山崎には茶室待庵国宝)が現存する。
  • 現在でも「利休饅頭(同種の菓子に利久饅頭の別名もあり)」というお茶受けのお菓子が各地にある。
  • 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州遠征のとき同行し筥崎宮に20日あまり滞在したとされる。このとき、秀吉は小寺休夢黒田孝高の叔父)らと浜(現在の九州大学馬出キャンパス内)で茶会を催した。このとき利休は秀吉の命により、に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかきあつめて湯をわかしたとされる。

作品[編集]

利休はさまざまな新しい試みを茶道に持ち込んだ。(らく)をはじめとする職人を指導して好みの道具を作らせるとともに、みずからも茶室の設計、花入茶杓の製作など道具の製作にも熱心であった。紹鴎の時代にあってもまだ煩雑であった茶会の形式をさらに簡略化するとともに、侘び道具を製作・プロデュースして、多くの支持者・後継者に恵まれたことが、利休を侘び茶の完成者と言わしめる由縁である。

  • 茶室待庵京都府大山崎町所在。利休作といわれる。国宝
  • 黄金の茶室 : 豊臣秀吉の命により製作。
  • 書状「武蔵あぶみの書(織部あて)」「末吉勘兵衛宛書状」「松井佐渡守宛書状」など
  • 書状「寄進状」
  • 書「孤舟載月」
  • 竹花入「園城寺」「尺八」「夜長」
  • 茶杓「なみだ」「面影」

出自・系譜[編集]

利休の祖父は、『千家系譜[22]によれば、

里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤

と説明されており、新田里見氏の一族田中氏の出身とされる。また『千利休由緒書[23]には、

利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。先祖より田中氏に而御座候。就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候。

と書かれており、利休の祖父の名は初めは専阿弥、のちに千阿弥といい、足利義政同朋衆であったので、その子、田中与兵衛(利休の父)がその阿弥号の千の字をとって千姓を称したとされる。

ただし、「阿弥」号は当時の時宗門徒などには極めてありふれたものであったから必ずしも同朋衆に結びつくものではない。この説の初出である「千利休由緒書」は、利休の曾孫である江岑宗左によるものであり、利休の同時代史料には見当たらないところから内容を疑問視するむきがある。たとえば芳賀幸四郎は、「千利休由緒書」の伝承は『応仁記』巻第二「室町亭行幸之事」に名のみえる「同朋専阿弥」を参考にしたのではないかと指摘する[24]。また村井康彦は、「利休の祖先が義政の同朋衆であったとするなら(中略)千阿弥は利休の祖父というより曾祖父」でなければ時代が合わないと疑義を呈している[25]。中村修也は、「利休の祖父が足利義政の同朋衆であったという確たる史料はなく、むしろ創作された家伝と見るほうが無難である。ただし、この記事は田中姓から千姓に代わった経緯を説明する役割を担っており、その意味では、千家がもとは田中姓であったことは疑いあるまい」[26]としている。

さらに、山上宗二の『山上宗二記』(天正16年(1588年))は、利休のことを田中宗易、利休の長男を田中紹安(後の道安)と記しており[27]、利休の晩年に至っても姓としては田中の方が通っていたと考えられることから、利休の父の代に田中姓を千姓に代えたのではないとする向きもある。たとえば神津朝夫は、「利休の父が田中姓を千姓に改めたというのも正しくない。『山上宗二記』には「田中宗易」と明記されており、利休の本姓は依然として田中だったことがわかるからだ」と指摘し、「千」は利休以前から続く田中家の屋号であるとしている[28]

家族[編集]

  • 宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ、生年不詳 - 天正5年7月16日1577年8月10日))
    先妻お稲。三好長慶の妹。天文11年(1542年)頃に利休に嫁ぎ、一男四女をもうけた。しかし夫婦仲は円満ではなかったと伝わる。
  • 宗恩(そうおん、生年不詳 - 慶長5年3月6日1600年4月19日))
    後妻おりき。元は能役者の宮王三入の妻で、一男(後の少庵)をもうけた。天文22年(1553年)頃、夫に先立たれる。天正6年(1578年)兼ねてより縁のあった利休が前年に妻を亡くしていたため、利休と再婚した。宗恩は新たな袱紗さばき提案するなど、自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役、理解者であったといわれる。
  • 千道安
    長男。母は宝心妙樹。
  • 宗林(そうりん、生没年不詳)
    次男。母は宗恩。夭折し、父母を悲しませたという。
  • 宗幻(そうげん、生没年不詳)
    三男。母は宗恩。夭折した。
  • 田中宗慶
    一説に庶長子。
  • 清蔵主(せいぞうしゅ、生没年不詳)
    庶子。明叔寺を号。
  • 千少庵
    養嗣子。宗恩の連れ子。
  • 千少庵(生没年不詳)
    長女。母は宝心妙樹。永禄元年(1558年)頃、茶人千紹二に嫁いだ。
  • 不明(生没年不詳)
    次女。母は宝心妙樹。天正4年(1576年)頃、利休の弟子である万代屋宗安に嫁いだ。天正17年(1589年豊臣秀吉に気に入られて、奉公するように請われたが断り、後の利休の自害の遠因になったという説がある。夫が没すると、実家に戻った。
  • 三(生没年不詳)
    三女。母は宝心妙樹。従弟にあたる石橋良叱に嫁いだ。三の逸話は一説には彼女の事とも言われる。
  • 吟(生没年不詳)
    四女。母は宝心妙樹。天正12年(1584年本能寺の僧侶円乗坊宗円古市宗円・玉堂)に嫁ぐ。
  • 不明(生没年不詳)
    五女か。魚屋与兵衛に嫁いだ。
  • 亀(かめ、生年不詳 - 慶長11年10月29日1606年11月29日))
    末女、六女か。名は長(ちょう)とも。天正4年(1576年)頃、後に利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦を儲けている。利休が秀吉の怒りを買って堺に蟄居する際に、歌を亀に残している。また夫婦仲は良好ではなかったようで少庵とは別居していたが、息子千宗旦が利休に連座しようとした際には別居先から駆けつけている。

また三・亀を除くいずれかの女子が、天正19年1月18日1591年2月11日)に自害している。

千利休を題材にした作品[編集]

小説
映画
テレビドラマ
漫画

脚注[編集]

  1. ^ 久須見疎安『茶話指月集』元禄14年(1701年)。
  2. ^ 「大徳寺三門ニ利休木さうつくり、せきたといふこんこうはかせ、つへつかせつくり置候事曲事也」(勧修寺晴豊『晴豊公記』第七巻、天正19年2月26日条(1591年4月19日))
  3. ^ 「宗易木像、大徳寺ニ在之、今度、宗易御勘気也、依之、聚楽之橋ニ被曝置之」(吉田兼見『兼見卿記』巻十六、天正19年2月26日条(1591年4月19日))
  4. ^ 「近年新儀ノ道具共用意シテ、高直ニウル、マイスノ頂上也トテ歟、以外関白殿御腹立」(『多聞院日記』巻三十七、天正19年2月28日条(1591年4月21日))
  5. ^ 「二条院の御墓舟岡の麓にあり。御墓に五重の石塔ありしが、千与四郎入道利休此御石塔の九輪を取、己塔とし、及手水鉢にせしとかや。かゝる大悪のつのりて次第に奢り、後には私曲をせしを、豊臣太閤大に怒り給ひ」(平直方『夏山雑談』巻之五、寛保元年(1741年))
  6. ^ 「利休様御茶道の御異見御意に叶わざる揚句の沙汰とかや」(吉田孫四郎雄翟 口述、千代女 書留『先祖等武功夜話拾遺』巻七、寛永15年(1638年))
  7. ^ 「正月十八日(天正19年)息女自殺セラレ、ソレヨリ愁傷ノ内ニ、世上ヒソメキテ、ツヰニ二月廿八日ノ難アリシユヘ」(南坊宗啓『南方録』第七巻・滅後、文禄2年(1593年))
  8. ^ 「秀吉公ハ徳善院御使候て、父ノ利休かたへ此旨被仰下候、利休存候ハ、娘を御カゲカメイ奉公ニ出し候てハ、何事も利休ハ、娘の影候て、仕合よしと、人に被思候テハ、只今まての佳名キワメテ皆水に成候、中々存も不寄ト志ヲ極、御うけ不申上、両三度まて被仰遣候へ共、利休曽而御うけ不申候ニ付、甚以テ御にくみふかく罷成候」(『秀頼公御小姓古田九郎八直談、十市縫殿助物語』承応2年(1653年))
  9. ^ 「殿(豊臣秀長)の昵懇の御茶道師宗易殿、この頃は何敵と蔑如に扱はれ、関白殿下御疑ひの筋もこれある哉と洩れ承り候」(吉田孫四郎雄翟 編『武功夜話』巻十七、寛永15年(1638年))
  10. ^ 杉本捷雄『千利休とその周辺』淡交社、1970年。桑田忠親は、「ある長編の歴史小説で試みられた作家のフィクションであって、史実ではない」と否定している(桑田忠親『千利休―その生涯と芸術的業績』中央公論社、1981年)。なお、その歴史小説とは、野上彌生子『秀吉と利休』を指す。
  11. ^ 芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館、1963年。米原正義『天下一名人千利休』淡交社、1993年。児島孝『数寄の革命―利休と織部の死―』思文閣出版、2006年。
  12. ^ 会田雄次・山崎正和対談「利休が目指し、挫折したもの」(「プレジデント」27(9) 《特集》千利休、1989年9月。
  13. ^ 笠原一男編集『学習漫画 人物日本の歴史〈12〉織田信長・豊臣秀吉・千利休―安土・桃山時代』集英社
  14. ^ 岡倉天心薯『茶の本国立国会図書館
  15. ^ 千利休薯『利休百回記』岡山大学付属図書館
  16. ^ 前掲『茶話指月集』。
  17. ^ 前掲『茶話指月集』。
  18. ^ 前掲『茶話指月集』。
  19. ^ 『細川家記』(東京大学史料編纂所所蔵)
  20. ^ 『南方録』滅後に、利休が大男であったという記述がある。「道具ノ似合タルガヨキト、休常ニノ玉ヘリ。休ハ大男ナルユヘ、イカニモシヲラシク小形ナル物ガ似合タリ、大坊主ニ大道具ハ、フツヽカニテ、数寄ノ心ニアラズ」(南坊宗啓『南方録』第七巻・滅後、文禄2年(1593年))
  21. ^ 江岑宗左『千利休由緒書』承応2年(1653年)、国枝清軒『武辺咄聞書』延宝8年(1680年)、山田宗徧『茶道要録』付録 元禄4年(1691年)、成島司直「千利休罪科付格言の事」(『改正三河後風土記』巻第二十九)天保4年(1833年)など。
  22. ^ 了々斎宗左『千家系譜』文化元年(1804年)
  23. ^ 江岑宗左『千利休由緒書』承応2年(1653年)。『墨海山筆』巻二十二所収の「利休伝」(東京大学史料編纂所架蔵)は『千利休由緒書』の写しとされ、若干の異同がある。
  24. ^ 芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館、1963年。
  25. ^ 村井康彦『千利休』講談社、2004年。
  26. ^ 中村修也「『源流茶話』注釈(二)」文教大学教育学部紀要38、2004年。
  27. ^ 「関白様ヘ 召シ置カルル当代ノ茶ノ湯者 田中宗易 今井宗久 津田宗及 山上宗二 重宗甫 住吉屋宗無 万代屋宗安 田中紹安 大抵百五十年以来ノ茶ノ湯者、是レ也」(山上宗二『山上宗二記』天正16年(1588年))
  28. ^ 神津朝夫はこれに続けて「千家は朝鮮系の家ではないかとする説もあるが、田中が姓だったのではそれも成り立たない。もしも日本「帰化」姓が田中だったのなら、秀吉の朝鮮侵略中に少庵が千家に戻したことになり、あまりに不自然だろう。」とも指摘している(神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』2005年、角川書店)。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

 

 

 

센노 리큐

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센노 리큐의 초상

 

   센노 리큐(千利休, 천리휴, 1522년 ~ 1591년 4월 21일)는 일본에서 일본다도를 정립한 것으로 유명한 역사적 인물이다(승려, 정치가). 특히 와비챠(わび茶, 草庵の茶) 전통의 원조가 되었다. 그래서 일본에서는 다조(茶祖)라 부르기도 한다. 조화와 존경, 맑음과 부동심을 의미하는 화경청적(和敬淸寂)의 정신을 강조하여 차마시는 것을 단순한 마시는 행위에서 일본을 대표하는 문화로서 차도를 만든 사람이다.

   리큐는 오늘날 오사카 지방인 사카이에서 태어났으며 어릴적 이름은 '요시로'였다. 58세때 오다 노부나가의 다도 스승이 되었으며 그가 죽은 이후에는 도요토미 히데요시의 다도 선생이 되었다. 1585년의 오기마치 천황을 위해 일본 황궁에서 연 다도회에서 코지라는 이름을 받았다. 그는 특히 도요토미 히데요시의 총애를 받았으며 그를 위해 크고 작은 다도회를 열었다.

하지만 이후 도요토미 히데요시에게 미움을 사게 되어 자결을 명받아 1591년 2월 28일, 주라쿠 다이에서 할복하였다.

그의 죽음 이후에도 일본다도는 17세기를 거쳐 자손들과 제자들에 의해 계승되며 귀족층과 일본 중산계급에도 널리 보급되게 된다.

 

와비[편집]

   센노 리큐는 간소하고 차분한 일본의 미의식인 와비(侂び)의 개념을 정립하였다. 그의 와비(侂び)를 구현하기 위해 다도는 작은 족자 하나와 꽃 한 송이 꽂힌 꽃병 이외엔 아무 장식이 없는 작고 수수한 다다미 2장짜리 다실과 또한 소박하지만 기품 있는 다기들을 가지고 행하는 문화적 행위였다. 리큐는 이러한 미의식 추구를 바탕으로 차 달이기의 의례적인 측면, 다회의 진행순서, 회석요리 등을 양식화하여 다도를 확립한다.

 

다도와 조선 도자기[편집]

  당시 일본은 좋은 도자기를 만들어내지 못하였고 중국산 도자기는 지나치게 화려하여 소박한 미를 추구하는 일본 다도에 적절하지 않았다. 그래서 조선에서 만든 도자기에 각별한 관심을 가졌는데, 임진왜란을 일으켜 조선을 침략하였을 때 조선 도공들을 납치하고 조선 백자를 수집하는 데 혈안이 된 것도 그 때문이었다. 정작 센노 리큐는 도요토미 히데요시의 출병을 반대했는데, 이는 출병이 실질적으로 그가 이상적으로 생각하던 세상의 균형이나 평화의 미학에 반했기 때문이었다. 그러나 정작 스님으로서 센리큐가 설파했던 다도 속의 이상향은 도요토미 히데요시의 정치적 목적과 현실에 대치되어서 크게 미움을 사게 된다. 센노 리큐가 자결을 하도록 명령받은 이유에 대해서는 분명치 않으나 센노 리큐가 도요토미 히데요시의 출병을 만류했던 것은 비교적 분명하게 사료로 남아있으며 자결을 하도록 명을 받은 이유로도 추정되고 있다. 이후 센노 리큐의 다도는 그 제자들에 의해 여러 문파로 갈라져서 일본에서 발달하게 되는데 이 과정에서 막부와 왕가의 모든 귀족들은 다도는 할 수 없어서는 안 되는 교양이 되었다.

   조선의 도자기를 도요토미 히데요시가 원했던 이유중에는 당시 일본에서는 자체적으로 고령토나 백토의 산지를 찾지 못하고 있었으며 수요는 극에 달하고 있었기 때문이었다. 동아시아에서 일본은 비교적 늦게 도자기가 발달했는데, 정작 다도는 융성하고 있었다. 게다가 17세기에 도자기는 엄청난 가치가 있었다. 일본의 당대 기록에 따르면 하급 무사의 토지와 녹봉 전체가 다완 하나의 가치와 맞먹었을 정도였다. 따라서 일본의 다도 예절 중에 다도 도구를 감상하는 시간이 있는 것은 당대 다도구들이 모두 예술품이고 엄청난 고가의 제품들이었기 때문이기에 어찌보면 당연하달 수 있겠다.

   오다 노부나가시절에 일본과 교류하기 시작한 네덜란드 상인들 역시 사정은 마찬가지였는데 이 당시로부터 이후 백년간 유럽에서는 고령토를 생산하지 못 했고 중국은 이를 이용해서 막대한 수출액을 챙기고 있었으며, 교역상대 역시 중국측에서 고를 수 있었다. 중국의 주요 교역국이 되지 못 했던 네덜란드는 대체품을 원하고 있었고 도요토미 히데요시는 일본의 도공들에게 중국에서 들여온 고령토를 쥐어주고 생산을 하도록 시키게 된다. 그리고 임진왜란을 기점으로 조선의 도공들을 가족까지 모두 잡아가서 도자기를 만들도록 시킨다. 일본에 건너간 조선 도공들은 규슈로 이주해 도공 마을에 한데 묶여 감시를 받으면서 막부가 중국으로부터 수입했던 고령토를 이용해서 초기 일본 도자기를 만들었고 이삼평심수관 등의 이주 도공들은 규슈에서 고령토를 찾아낸 이후 일본의 도자기는 급격하게 발전하게 되었다. 이들의 상품은 네덜란드에 고가에 판매되어 막부에 막대한 수익을 남기게 되었다. 막부는 특히 이도 다완이라는 점을 강조하기 위해 이도다완으로 정부 인증을 붙여 고가에 판매하여 규슈는 도자기 산지로서 명성을 떨치게 된다. 일본의 판화를 세계에 알렸던 1867년 파리만국박람회에 일본이 도자기를 출품했던 것을 보면, 당대의 일본이 무엇으로 유럽에 알려져 있었는지를 명확히 알 수 있다.

   일본의 도예가 발전한 것에 대한 치하 이유로 귀화를 한 많은 도공 일가에 대해 막부는 무사의 지위를 주고 비교적 윤택한 삶을 누리게 했다. 그러나 이와는 별도로 차별대우와 감시는 여전해서, 이도 다완에는 숨어서 하는 외출에 대한 이야기나 고향을 그리는 시같은 것들이 적혀있는 경우가 왕왕있다. 메이지 시대 말까지 귀화하지 않은 조선 도공들의 후손들은 자신의 영지이자 마을을 떠날 수가 없었다고 하며 그럼에도 상당수가 귀화하지 않고 조선인으로 살았으며 이들은 도공 이외에는 아무것도 할 수 없었다. 현재 14대째 이어져 내려오고 있는 심수관요는 일본의 대표적인 이도다완이며 현재 한일 민간 외교사절이자 주한 가고시마 대사관 역할을 겸하고 있다.


참고 서적[편집]

  • 다도와 일본의 미 - 한림신서일본학총서 17, 야나기 무네요시 지음, 김순희 옮김, 소화, 2004년,ISBN(13) : 9788984102606
  • 일본다도의 이론과 실기, 곤니치안 지음, 박민정 옮김, 다도사, 2007년, ISBN(13) : 9788988651117
  • 일본 기행 조선도공을 생각한다, 최승범 지음, 신영출판사, 1994년, ISBN : 6000029702