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2013. 7. 22. 14:15차 이야기

 

 

茶室

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如庵(国宝、江戸時代初期)。織田有楽好み。壁には連子窓(中央)と下地窓(右)を開ける。左の土間庇の下、右手に躙り口があるが、写真ではみえない。
天然図画亭の点前座。客座との間には中柱を立てる。客座と点前座の間を結界で仕切るのは珍しい。
鹿苑寺夕佳亭(明治初期の再建)。金森宗和好み。三畳の開放的な茶室。
兼六園の茶室、夕顔亭
慈光院高林庵。片桐石州好み。二畳台目。点前座の奥に床を設ける「亭主床」という珍しい形式。
高桐院松向軒。細川三斎好み。点前座から客座を望む。天井は平天井と掛込天井(化粧屋根裏)を組み合わせる。

茶室(ちゃしつ)は、日本式の茶道において、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。独立した建物として造られる場合と、書院などの建物内に造り込まれる場合がある。いずれの場合も露地と称する庭園を伴うのが一般的であったが、現代ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。四畳半を標準として、それより狭いものを小間の茶室、広いものを広間の茶室という。

茶室の歴史[編集]

「書院の茶」から「草庵の茶」へ[編集]

日本における喫茶の風習は、記録上では平安時代にさかのぼる。鎌倉時代には禅宗寺院を中心に喫茶の風が広まり、室町時代には会所において茶がふるまわれていた。この時代の会所とは連歌の会などの寄合が行われた建物を指す。室町殿の南向会所では、主座敷の裏手に「茶湯所」という部屋があり、ここで茶を立て、座敷に運んでいた。絵巻物『慕帰絵詞』巻五には当時の会所の様子が描写されている。画中の座敷には和歌の集まりと思しき会合に集まって、くつろぎ談笑する僧俗の人々がおり、隣の部屋では、棚に多くの茶碗や茶道具が置かれ、座敷へ茶を運ぶ僧たちの姿がみえる。当時はこのように、遊興の場において茶がふるまわれていた。こうした座敷が、床(とこ)、棚、付書院などを伴った書院造として定式化していくとともに、「書院の茶」と呼ばれる茶の文化が広まっていった。こうした「書院の茶」においては、茶道具や飾り物として唐物(中国渡来の茶碗、書画、道具など)が使われ、中国文化と禅宗の影響が大きかった。これが、15世紀後半から16世紀にかけて、「市中の山居」(都会にいながらにして山里の風情を味わう)を志向する「草庵の茶」(侘び茶)へと移行していく。草庵の茶は、15世紀の人物で一休宗純に参禅した珠光から、堺の町衆である武野紹鷗(16世紀前半)を経て、その弟子の千利休(16世紀後半)に至って大成された。[1]

「茶室」の呼称[編集]

「茶室」の語の初出は『南浦文集』であり、南浦文之の没年である1620年以前にこの語が存在したことがわかる。ただし、「茶室」の語の使用が一般化するのは近世末期以降であり、それ以前には「数寄屋」「数奇屋」「小座敷」「茶湯座敷」などと呼ばれていた。広間の一部を屏風などで囲って仕切ったことに由来する「囲い」という呼称もある。[2]

茶室の起源[編集]

茶室の起源については、広間の一部を屏風や建具で仕切って使ったことに始まるともいうが、確かなことはわからない。文明18年(1486年)足利義政の東山殿に建てられた持仏堂(現在の慈照寺東求堂)の同仁斎を最古の茶室とする見方もあるが、この同仁斎については茶室とする説と書院とする説とがある。同仁斎は四畳半の室で、北側に棚と付書院を設けるが、床(とこ)は設けていない。部材墨書に「御いるりの間」とあることから、かつてはこの部屋に炉(いるり)が切られ、後世の茶室に近い構成であったことは窺える。別室の茶立所で点茶し、座敷に運び込む形式から、室内に炉を切り、亭主がそこで茶を立て、客にふるまう形式に推移し、次第に茶事専用の独立した施設としての茶室が普及していった。[3]

珠光から利休まで[編集]

15世紀の人物である珠光は一般に侘び茶の祖とされているが、その生涯や事績については不明の部分が多く、珠光の造った茶室も現存していない。山上宗二の『山上宗二記』には「珠光は四畳半、引拙は六畳敷なり」とある(引拙は珠光の弟子の武家茶人・鳥居引拙)。「東大寺四聖坊数寄屋図」という古図には「珠光好地蔵院囲ノ写」、すなわち珠光好みの茶室の写しという四畳半の存在が記録されている。それによれば、この四畳半には一間(畳1枚分の幅)の床(とこ)、檜の角柱、襖2枚、障子4枚があり、書院風のものであったと推定される。連歌師宗長の『宗長日記』によると、大永6年(1526年)の時点では四畳半や六畳の座敷で茶事が行われていたことがわかる。『山上宗二記』には武野紹鷗の四畳半が平面図入りで紹介されているが、その図の注記によれば、柱は檜、壁は張付壁、天井は野根板(杉、サワラなどの板を薄くはいだもの)で、茶室の正面(北側)には「坪ノ内」と「竹のスノコエン」があり、露地(坪ノ内)から簀子縁(スノコエン)に上がり、障子を開けて席入りする形であったことがわかる。この四畳半は北向きで窓がなく、光は北側の入口からしか入らなかった。また、入口の鴨居が通常よりも低く設置されており、茶室の入口が俗世間を離れ、非日常的空間への入口であることを象徴していた。[4]

茶室は古来、四畳半を基準として、それより狭いものを小間(こま)の茶室、広いものを広間の茶室と称する[5]。小間の茶室には三畳に台目(だいめ、丸畳の4分の3の長さの畳)の手前座を配した三畳台目(表千家不審庵、金地院八窓席など)、二畳半台目(如庵など)などがあり、利休の作とされる妙喜庵待庵は二畳という狭小な空間である。利休は聚楽の屋敷に一畳半の茶室を設けたことも記録されている。こうした狭小な空間は、利休の志向した「直心の交」(じきしんのまじわり)、すなわち、亭主と客とが直に心を通い合わせる空間をめざしたものであった。体をかがめなければ入室できない躙口(にじりぐち)、丸太を用いた柱、土壁、壁の一部を塗り残して壁下地の木舞(格子状に組んだ竹)を見せた下地窓などが、草庵風の茶室の代表的な要素である。ただし、利休が造ったという確証のある茶室は現存せず、前述の妙喜庵待庵が利休作と推定されるのみである。したがって、利休がどのような過程でこうした草庵風の茶室を作り上げていったかは明らかでない。残された指図(平面図)から、利休の茶室を見ると、大坂屋敷にあった長三畳台目の茶室(『山上宗二記』所収)は、「脇ノ手水かまへ」から「くくりきと」(潜り木戸)を通って直接席入りする形になっており、紹鷗の四畳半にあった縁が省略されている。この「手水構」と「潜り木戸」はそれぞれ、蹲踞(つくばい)と躙り口の初源的なものと思われる[6]。利休は茶道具も唐物とともに和物を重視し、楽家に侘びた茶碗を作らせたり、自ら竹を斬って花入や茶杓を作るなど、侘びの美学を追求した。[7]

草庵風茶室[編集]

大胆な光の演出が施された高台寺遺芳庵

草庵風茶室は、田舎屋風の素朴な材料(丸太、竹、土壁など)を使って造られた。縁側からの採光を土壁でさえぎり、そこに必要に応じて「窓(下地窓、連子窓、突き上げ窓など)」をあけることにより光による自在な演出が可能となった。一間を基本としていた床の間も部屋の広狭、構成に応じて四尺、五尺とバリエーションを増し、そのデザインも、「室床」「洞床」「壁床」「踏み込み床」など、多様な展開を見せる。室内には中柱を立て亭主座と客座の結界とした。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間が生まれた。

千利休の茶室[編集]

にじり口(明々庵

茶室を独自の様式として完成させたのが千利休である。利休は侘び茶の精神を突き詰め、それまでは名物を一つも持たぬ侘び茶人の間でしか行われなかった二畳、三畳の小間を採り入れ、にじり口をあけた二畳の茶室を造った。なお、二畳と言うアイデアが秀吉のものなのか、利休のものなのかについては諸説ある。

  • 茶室待庵(国宝)は千利休の作とも言われるが、侘び茶の境地をよく示している。
  • にじり口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得た、とされる。しかし、にじり口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、また商家の大戸に明けられた潜りなど同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。
  • 利休は一方で、秀吉の依頼で黄金の茶室を造っている。これは解体して持ち運びできるように造られていた。黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として批判されることが多いが、草庵の法に従って三畳の小間であり、それなり洗練されたものも持っている。黄金の茶室も利休の茶の一面を示しているという見方もある。

利休後の展開[編集]

茶室の内部(ベルリン東洋博物館展示の茶室復元。道具類は点茶中の様子に即して配置されている)

古田織部小堀遠州らも茶室を造っている。茶室は小さな空間であるが、様々なパターンがあり、多様な展開を見せている。利休の孫宗旦は究極の侘びを追求して、利休が試みてすぐ廃した一畳台目という極小の茶室を生み出した。これに対して、古田織部、小堀遠州、織田有楽斎、金森宗和ら大名茶人は、武家の格式を持つ書院風茶室や小間と言えど三畳前後のゆとりのある茶室を生み出した。千家歴代もそれぞれに新たな茶室を好んでいるが、その試みは必ずしも宗旦が目指した侘びに徹したものとはなっていない。

茶室は小規模でもあり、解体して他の場所で再建することも比較的容易である。現に如庵(国宝)は、京都建仁寺から東京の三井家大磯の三井家別荘、犬山名鉄有楽苑、と度々移築されている。また「写し」と称して、名席と評される茶室を模して建てられることもしばしばある。

茶室の概要[編集]

松花堂の露地。奥に見えるのが腰掛待合。

伝統的な茶室は、露地と称する庭園の中に建てられている。露地は、俗塵を離れた非日常的空間である茶室に至るまでの空間を演出する。

客はいきなり茶室に通されることはなく、まずは寄付(よりつき)と呼ばれる部屋で茶事に不要な荷物を風呂敷にしまい、足袋をはき替えるなど、身支度をととのえる。続いて、「待合」と呼ばれる部屋へ通され、招待客全員が揃うのを待つ(寄付と待合は1部屋を区切って使う場合もある)。全員が揃うと、露地草履に履き替えて、露地に下り、腰掛待合という屋根つきのベンチに腰掛け、亭主の迎え付けを待つ。迎え出た亭主の合図に従い客は茶室へと向かう。外露地と内露地が分かれている場合は、その境に中門があり、これをくぐって内露地へ入る。茶室までの通り道は、飛び石を配し、亭主の心遣いにより打ち水が打たれている。茶室の前に蹲踞(つくばい)があり、ここで手水を使い、手と口を清める。

小間の茶室には、にじり口という小さな入口から、頭をかがめて体を入れる(広間の茶室の場合は、普通に襖をあけて席入りする)。茶室に入ってまず目に入るのが床の間で、四季に合わせた掛け軸が掛けられている。通常床前が上座であり正客席となる。夏には風炉が置かれ、冬には炉が切られ、そこが亭主の座る手前座である。小間の茶室では、手前座のための明り取りとして風炉先に下地窓が開けられていることが多い。

客が着座すると亭主が茶道口(勝手口)から入ってきて挨拶をし茶事が始まる。天井は低く、窓からの光も必要最小限に絞られて、主客ともに茶事に集中する。懐石を戴いた後一旦露地に退出するが、また茶室に戻り、まず濃茶を一同回し飲み、ついで薄茶を味わった後、客はこの一期一会の場から静かに退出する。

にじり口には頭を下げなければ入れないので、貴人を迎える場合のため、にじり口とは別に貴人口(きにんぐち、立ったまま入れる普通の障子戸)を設けることも多い。給仕のために茶道口とは別に給仕口をもうけることもある。

  • 記事露地も参照のこと。

建築史上の意義[編集]

  • わび茶を信奉する十六世紀の茶人民家を芸術の原形として関心を持ち、その中に寂びた美をみつけて芸術という高さにまでに昇華させ、茶室建築と数寄屋建築を生みだすにいたった。
  • 最小の空間の中に豊かな広がりが与えられており、いっぽうで茶事に関わる細やかな約束事(床や炉・畳の配置など)もあって、濃密度な日本建築の特色あるジャンルになっている。
  • 住宅建築に影響を与え、いわゆる数寄屋造りを生んだ。

著名な茶室[編集]

下記のうち、国宝に指定されている待庵・如庵・密庵の三棟が特に著名である。

  

脚注[編集]

  1. ^ 矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」、pp.II - V
  2. ^ 『ここから学ぶ 茶室と露地』、pp.12 - 13
  3. ^ 矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」、pp.IV - V
  4. ^ 矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」、pp.V - VI; 『ここから学ぶ 茶室と露地』、pp.14 - 16; 『図説 茶室の歴史 基礎がわかるQ&A』、pp.26 - 27, 38 - 39
  5. ^ 『ここから学ぶ 茶室と露地』、p.42
  6. ^ 『ここから学ぶ 茶室と露地』、p.223
  7. ^ 『ここから学ぶ 茶室と露地』、pp.15 - 16; 矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」、pp.V – VII; 『決定版 はじめての茶の湯』、p.213

参考文献[編集]

  • 矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」(前久夫『すぐわかる 茶室の見かた 改訂版』所収)、東京美術、2011
  • 飯島照仁『ここから学ぶ 茶室と露地』、淡交社、2011
  • 中村昌生『図説 茶室の歴史 基礎がわかるQ&A』、淡交社、1998
  • 千宗左『決定版 はじめての茶の湯』、主婦の友社、2009

関連項目[編集]